草木も仏になる、という考えはどこから来たのか。古い仏典の言葉と思われがちな「山川草木悉皆成仏」は、研究によれば近年の言い回しで、草木成仏の考えは平安時代の僧・安然にさかのぼるとされます。寺院の境内で受け取った鐘の音や線香の香りから考えます。

鐘の音と、線香の香りの中で
寺院の境内で作業をしていると、鐘や読経の音が聞こえてくることがあります。線香の香りが、風にのって漂ってきます。足もとは落ち葉や苔で、しっとりとしています。樹木に登れば、上から境内やお墓を見下ろすことになります。
上野の寛永寺・輪王寺で、高さ30メートルを超えるクスノキを剪定させていただいたとき(上野寛永寺・輪王寺 樹木医によるクスノキ剪定)。江戸川区の寿昌院で、臥竜の松の緑摘みをするとき(生命力を感じる名木「臥竜の松」)。赤坂の豊川稲荷東京別院で、参道脇のケヤキの枝を整えたとき(港区赤坂 豊川稲荷・東京別院様 ケヤキなどの高木剪定)。そうした寺院の境内で、私は仏教の樹木の見方に、ふれたような気がしてきました。

豊川稲荷東京別院の記事には、青山通りの車の列を横目に山門をくぐると、空気の密度が変わる、と書きました。高所作業車のバスケットから見下ろすと、緑青をまとった屋根と、赤い幟や提灯が、芽吹きはじめたケヤキの枝越しに透けて見えていました。そのすぐ向こうには、赤坂のビルと車の流れがあります。
同じ記事の終わりに、私はこう書きました。枝を一本下ろすたびに、境内に差し込む光がわずかに変わる。その光の加減、木漏れ日を、参拝に来られる方が心地よく感じてくださればと思う、と。早咲きの桜と赤い提灯、ふくらみはじめたケヤキの芽。ひとつの境内に、季節の異なる時間が重なり合っていました。

鐘の音や線香の香りに包まれた境内では、樹木もまた、この場所の祈りの一部として立っているように見えてきます。仏教では、草や木も仏になる、という言葉があると聞いたことのある方も多いと思います。今回は、その言葉の出どころをたどります。
「山川草木悉皆成仏」という言葉
「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」。山も川も、草も木も、ことごとく仏になる、という意味です。私がこの言葉を知ったのは、樹木や庭、自然について書かれた本の中でした。日本の自然観をあらわす言葉として、紹介されることの多い言葉です。
ところが、仏教学者の末木文美士(すえきふみひこ)によれば、この言い回しは仏典にも日本の古典にも見当たらない、近年になって広まった言葉だといいます。謡曲などで親しまれてきた「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉も、インドや中国の仏典には無く、日本の文献にしか見られないそうです。
千百年あまり前の僧、安然が向き合った問い
では、草木も仏になる、という考えそのものは、いつ生まれたのか。末木文美士は、平安時代の天台宗の僧・安然(あんねん)にさかのぼると論じています。安然は承和8年(841年)の生まれで、比叡山の五大院に住み、天台の密教の教えを大きくまとめた人です。
仏になるには、まず仏になろうという心を起こし(発心)、修行をすることが必要だとされてきました。では、心を持たないとされる草や木は、自分から心を起こし、修行して、仏になることができるのか。安然はこの問いに、草木もまた、自ら心を起こし、修行し、仏になる、と答えたといいます。
末木によれば、安然のこの考えは、中国の天台の書物を、大胆に読み替えることから生まれたものでした。読み替えというと、間違いのように聞こえるかもしれません。けれども、その読み替えには、新しい考えを生み出す力があったと、末木は評価しています。
仏典の言葉をそのまま受け取るのではなく、日本の山や川、草や木の前に立った人が、自分の目で見たものに合うように、言葉を読み直した。千百年以上前の比叡山で、そういうことが起きていたのかもしれません。
樹木は、自ら心を起こすのか
ここからは、私の解釈です。
草木が自ら心を起こす、と聞くと、樹木医としては首をかしげたくなります。樹木に心があるかどうかは、いまも分かっていません。そのことは、この連載の後の回で、あらためて考えたいと思います。

それでも、安然の問いに、どこか惹かれるものがあります。臥竜の松の手入れに通っていると、春には新しい芽がいっせいに伸びてきます。誰に言われるでもなく、毎年、同じ季節に、樹木は芽を伸ばし、葉を開き、また冬を越していきます。人の言葉でいえば、それを「心を起こす」と呼びたくなる気持ちも、分からなくはありません。
樹木の側から見れば、それは発心でも修行でもなく、ただその場所で生きているということです。けれども、同じ場所で毎年くり返される芽吹きを思い浮かべると、生きることそのものが、ひとつの修行のようにも思えてきます。安然が見ていたのも、そういう草木の姿だったのではないかと、私は想像しています。
出典が無くても、敬う気持ちは変わらない
「山川草木悉皆成仏」が古い仏典の言葉ではないと知っても、樹木を敬う気持ちは、私の中で何も変わりませんでした。
鐘の音を聞きながら枝を整えたこと。線香の香りの中で、苔のしっとりした足もとを踏みしめたこと。樹上から、何代もの人が眠るお墓と、そのあいだに立つ樹木を見下ろしたこと。そうした感覚は、言葉の出どころを知る前から、すでに私の中にありました。

寛永寺は、寛永2年(1625年)に開かれた寺院です。幕末の上野戦争で伽藍の多くを失い、輪王寺も平成元年(1989年)の火災で本堂を失って、建て直されてきました。建物は焼けては建て直され、そのあいだも、境内のクスノキは同じ場所で枝を広げてきたことになります。
言葉が先にあって、人が樹木を敬うようになったのではなく、樹木の前で受け取る感覚が先にあり、言葉はあとから、それに名前をつけたのかもしれません。安然の読み替えも、「山川草木悉皆成仏」という新しい言い回しも、人が草木の前に立ったときの、言葉にしにくい感覚を、なんとか言い表そうとした試みのように思えます。
言葉は、時代ごとに読み替えられ、言い換えられていきます。けれども、樹木の前で人が受け取るものは、千年前も今も、それほど変わらないのかもしれません。鐘や読経の音、線香の香り、しっとりとした苔の足もと。草木成仏という考えは、そうした感覚に支えられて、千年以上のあいだ読み継がれてきたのだと思います。
寛永寺・輪王寺のクスノキには、昔の大火のときに延焼を食い止めたという言い伝えがあります。言い伝えが確かかどうかは分かりません。それでも、そう語り継がれてきたこと自体が、人がこの一本に向けてきた思いの深さを伝えています。言葉の正しさとは別のところに、樹木と人とのあいだに積み重なってきた時間があります。
樹上から見下ろした、二つの時間
寺院の樹木に登ると、足もとに、お墓が並んでいるのが見えることがあります。そこには、何代にもわたる人の時間が眠っています。そのあいだに、人よりも長い時間を生きる樹木が、根を張って立っています。
人の時間と、樹木の時間。その二つが、ひとつの境内の中で重なっている。草木も仏になるという考えは、もしかすると、人がいずれ土に還り、樹木がその上で生き続けていく、その景色の中から生まれてきたものなのかもしれません。
草木は仏になるのか。その問いに、私は答えを持っていません。ただ、鐘の音の中で枝に向き合う時間は、樹木の時間に耳を澄ます時間でもあるのだと、いまは思っています。
次回は、「昔の人は自然を大切にしていた」という言葉は本当なのか、という問いから、日本の森がたどってきた歴史を考えます。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
出典・参考
・末木文美士『草木成仏の思想 ― 安然と日本人の自然観』サンガ、2015年(文庫版 サンガ文庫、2017年。サンガ新社版、2024年) サンガ新社の紹介 https://samgha-shinsha.jp/publishing/book/soumoku-joubutu-no-sisou/(2026年10月11日確認)
・日本経済新聞「草木成仏の思想 末木文美士著」(書評・井上章一、2015年4月) https://www.nikkei.com/article/DGXKZO85133190R00C15A4NNK001/(「草木国土悉皆成仏」はインド・中国の仏典に無く日本の文献にのみ見られること、「山川草木悉皆成仏」は近年の造語であること、安然の草木成仏論。2026年10月11日確認)
・コトバンク「安然」(小学館『精選版 日本国語大辞典』ほか) https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E7%84%B6(承和8年(841年)生、比叡山五大院。2026年10月11日確認)
・当社記事「上野寛永寺・輪王寺 樹木医によるクスノキ剪定」(寛永寺の創建、上野戦争、輪王寺の平成元年の火災、クスノキの延焼の言い伝え) https://toshilandscape.co.jp/archives/10754
・当社記事「港区赤坂 豊川稲荷・東京別院様 ケヤキなどの高木剪定」 https://toshilandscape.co.jp/archives/10815
・当社記事「生命力を感じる名木「臥竜の松」 その美しさと歴史 江戸川区」 https://toshilandscape.co.jp/archives/9328
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」
第1回 御神木の前に立つと
第2回 樹木は、神そのものではなかった
前回 第3回 残ったから、神になったのか
第4回 「山川草木悉皆成仏」は誰の言葉か(この記事)
次回 第5回 共に生きてきた、は本当か(公開後にリンクを追記)
連載「樹木の時間」のすべての回は、連載の一覧からご覧いただけます。
































