上野寛永寺・輪王寺のクスノキ剪定──四百年の祈りが宿る一本と向き合う
上野の山の東端、東京国立博物館のすぐ隣に、喧騒とは切り離されたような静かな空間があります。東叡山寛永寺・輪王寺(両大師)。その境内に立つ、高さ30mを超える大きなクスノキの剪定を、このたび私たちが担当させていただきました。
- クスノキの樹冠と高所作業車
- 境内で道具を準備する
- 樹冠の中で作業するクライマー
- 高所作業車から枝を切る
この木には、遠い昔、この一帯で起きた大火の際に延焼を食い止めたという言い伝えがあり、長く大切に守られてきた一本です。樹冠を見上げると、常緑の葉が空を覆うように広がっていて、幹の太さにも、枝の張り方にも、数百年という時間が刻まれているのがわかります。
江戸の鬼門を護った寺──寛永寺の成り立ち
寛永寺は寛永2年(1625年)、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。徳川家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海が、江戸城から見て艮(うしとら)──北東の方角、すなわち「鬼門」に当たるこの地を選び、幕府と万民の平安を祈る祈願寺として開いたのが始まりです。
山号の「東叡山」は「東の比叡山」を意味し、京都における比叡山延暦寺と皇城の関係を、そのまま江戸に写し取ろうとした天海の構想が込められています。実際に不忍池は琵琶湖に見立てられ、池の中島に建てられた弁天堂は竹生島になぞらえたものでした。一つひとつの伽藍配置に、江戸という都市の霊的な骨格を設計しようとした意志が読み取れます。
最盛期の寛永寺は、現在の上野公園の約2倍にあたる寺域を誇り、大名の寄進によって建立された36もの子院を擁していました。やがて4代家綱、5代綱吉が寛永寺に葬られたことで、寛永寺は正式に徳川将軍家の菩提寺となります。以降、増上寺と交互に将軍が埋葬されるかたちが定着し、最終的に歴代15人の将軍のうち6人──家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定──がこの地に眠ることになりました。
上野戦争と焼失──それでも残ったもの
慶応4年(1868年)5月15日。戊辰戦争のさなか、旧幕臣を中心に結成された彰義隊と新政府軍との間で、上野の山を舞台にした激しい戦闘が起こります。大村益次郎の指揮のもと、薩摩藩兵は黒門口正面から、長州藩兵は本郷方面から一斉に進撃し、わずか一日で彰義隊は壊滅しました。
この戦火で、寛永寺の壮麗な伽藍の大部分が焼け落ちます。根本中堂も、本坊も失われました。さらに、彰義隊を匿ったと見なされた寛永寺は境内の全域を新政府に没収され、のちに返還されたのは戦禍を免れたわずか1割ほどの土地にすぎませんでした。没収された広大な境内はやがて整備され、現在の上野恩賜公園となっています。私たちが花見や美術館を楽しんでいるあの空間は、かつて祈りの場だったのです。
輪王寺(両大師)──もう一つの歴史の層
今回の作業場所である輪王寺は、寛永寺の伽藍の一部として建てられた開山堂がその原型です。正保元年(1644年)、天海大僧正の没後、この地に天海を祀る堂が設けられました。さらに天海自身が深く崇敬していた慈恵大師良源(元三大師)の像も本坊から移され、慈眼大師と慈恵大師の二人を祀ることから「両大師」と呼ばれるようになりました。
「輪王寺」という名は、もともと寺号ではありませんでした。承応3年(1654年)に後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が寛永寺の貫主に就き、東叡山・比叡山・日光山の三山を管領する「輪王寺宮」の称号を勅賜されたことに由来します。つまり輪王寺とは宮様の称号であり、一つの寺を指す名前ではなかったのです。戊辰戦争後、最後の輪王寺宮が還俗したことで一度途絶えましたが、明治16年(1883年)に東叡・日光両山からの要請で「輪王寺」の名が寺号として復活し、門跡寺院として再興されました。東京で唯一の門跡寺院です。
開山堂は慶応4年の上野戦争の戦火をくぐり抜けて焼け残りました。しかし平成元年(1989年)に火災に遭い、天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂を失います。現在の本堂は平成5年(1993年)に再建されたものです。壊されては建て直し、焼けてはまた再興する。この場所自体が、繰り返し立ち上がってきた歴史を持っています。
延焼を止めたクスノキ──言い伝えの重み
その輪王寺の境内に、今回剪定を行ったクスノキは立っています。大火の際に延焼を食い止めたという伝承は、この寺が経験してきた幾度もの火災の記憶と無縁ではないでしょう。上野戦争の砲火、あるいはそれ以前の江戸の大火か──いずれにせよ、この木が「火を防いだ木」として語り継がれ、守られてきたことには、ただの伝説以上の意味があります。
クスノキは常緑広葉樹で、葉の密度が高く、樹冠が厚い層をつくります。葉には樟脳を含む油分があるため防火樹としての評価は分かれるところですが、大きく育ったクスノキの樹冠が輻射熱や飛び火に対して物理的な壁として機能した可能性は十分にあります。科学的な検証の余地はあるにせよ、この木が実際に火を遮ったという記憶が土地に刻まれ、人の手で守り継がれてきた事実そのものが、一本の木の「履歴」として重いと感じます。
樹木医としての剪定──ロープワークと高所作業車の併用
今回の剪定は、私たち株式会社トシ・ランドスケープが樹木医を中心に実施しました。高さ30mを超えるクスノキに対し、ロープワーク(ツリークライミング技術)と高所作業車を併用して作業にあたっています。
大径木の剪定において、この二つの手法を組み合わせることには理由があります。高所作業車は安定した足場から外縁部の枝にアクセスするのに適していますが、樹冠の内部や幹に近い構造枝の状態を確認しながら作業するには、クライマーが樹上に入る必要があります。枯れ枝の除去、交差枝や逆枝の整理、そして将来の樹冠構造を見据えた主枝の選定、こうした判断は、枝の一本一本に触れながらでなければできません。
寺社境内の巨樹は、長年にわたる人の手と自然の力が重なり合った結果として、今の樹形があります。その経緯を無視して「正しい樹形」に矯正するような剪定は適切ではありません。この木がこの場所でどう育ち、どこに光を求め、どの枝が構造的に幹を支えているか。その読み解きなしに鋏を入れることは、私たちの仕事ではないと考えています。
- 幹の横に上げた高所作業車
- ロープワークと高所作業車の併用
- 樹冠の上部で作業する
- 樹冠の中で作業するクライマー
- 切った枝を片付ける
作業として枝を整えるだけではなく
剪定という行為は、切った瞬間に結果が出るものではありません。切り口が塞がり、新しい芽が動き出し、数年後にどういう樹冠が形成されるか。その未来の姿を想像しながら、手を決めていく仕事です。
寛永寺が開かれてから今年で401年。その間に戦禍も天災も経験し、境内の景色は何度も変わってきました。けれど、このクスノキはそのすべてを見てきた可能性がある。上野戦争の硝煙も、明治の近代化も、昭和の空襲も、平成の火災も、この木はここで立ち続けて見てきたのかもしれません。
そうした深い時間の積み重なりの中にある一本だからこそ、作業として枝を整えるだけではなく、この木がこの場所で生き続けてきた背景ごと受け止めながら向き合うことが大切だと考えています。土地の記憶とともに生きる樹木を、これから先へどうつないでいくか。私たちもまた、その一端を担う思いで作業にあたりました。
ご依頼をいただきありがとうございました。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
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株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
※ 「ツリークライミング」は、株式会社ツリークライミングワールドの登録商標です。当社の記事では、ロープとハーネスで樹木に登って作業する技術を指す言葉として使っています。











































