「昔の人は自然を大切にしていた」という言葉は、本当なのか。江戸時代から昭和の半ばごろまで、日本の山には、はげ山が多かったとされます。手入れの止まった林の暗さや湿った匂い、二百年先を見て育てられている森の歩みから、樹木への敬意とは何かを考えます。

「日本人は自然を大切にしているのか」という問い
ドイツやイタリアを訪ねたとき、日本の樹木の扱いについて、尋ねられたことがあります。日本人は自然を大切にしているのか。神道や御神木と、樹木はどう関わっているのか。日本の剪定や、庭の手入れの技について。都市の樹木や街路樹を、どう管理しているのか。
海の向こうから見ると、日本は、自然とともに暮らしてきた国のように映るのだと思います。注連縄を巻かれた巨樹や、手入れの行き届いた庭は、その姿をよく伝えています。
日本の中でも、「昔の人は自然を大切にしていた」という言葉を、よく耳にします。けれども私は、この言葉を聞くと、少し立ち止まりたくなります。生活に使うための樹木と、信仰の対象の樹木は異なる。そう感じているからです。
前回までに、御神木の多くは、境内という場所に守られて残ってきたことを見てきました(第3回 残ったから、神になったのか)。では、境内の外の山や林は、どうだったのでしょうか。
はげ山の続いた時代
林野庁の森林・林業白書によれば、江戸時代には、荒れた森林が現在よりもはるかに多くありました。建物の材や燃料のために木が伐られ、田畑の肥料として落ち葉や草木が集められて、はげ山が広がっていたといいます。幕府や藩は、伐ることを禁じる「留山(とめやま)」を設けるなどして、山を守ろうとしました。寛文6年(1666年)の「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」では、川の上流の木の無い土地に木を植えることも打ち出されています。

明治に入ると、山は再び荒れました。滋賀県の湖南アルプスのように、江戸から昭和にかけて、はげ山のまま水害をくり返した山もあります。今のように山々が緑に覆われたのは、治山と植林が重ねられ、燃料が薪や炭から石炭や石油、ガスに替わって、山の木や草を使うことが減ってからのことです。
森林の研究者・太田猛彦は、かつて荒れていた日本の山が、今では森で満ちた「森林飽和」とも呼べる状態にあると論じています。また、アメリカの歴史家コンラッド・タットマンは、江戸時代の人々が、荒れた山を前にして、伐ることを抑え、木を育てる仕組みを少しずつ作っていったことを描きました。
人は、自然をいつも大切にしてきたわけではありませんでした。山を使い尽くし、荒らしてしまい、そのたびに、守り方を考え直してきた。その方が、歴史の姿に近いようです。
荒れた林の、暗さと湿った匂い
樹木の仕事をしていると、手入れが止まって荒れた林に入ることがあります。都内の神社やお寺だけでなく、郊外や地方の神社やお寺、里山でも、そうした林を見てきました。
荒れた林の中は、暗く、足もとには下草がほとんどありません。竹や笹、つるが広がって、前に進めないこともあります。風が通らず、湿った匂いが、こもっています。
手入れされた森に入ると、その違いがよく分かります。明るく、風が通っているのです。
木漏れ日は、枝と枝のあいだに隙間があって、はじめて地面に届く光です。葉が揺れるのも、そこに風が通っているからです。私たちが森の中で心地よいと感じる光や風は、枝と枝、木と木のあいだの、ほどよい隙間から生まれています。

ここからは、私の解釈です。
山は、使われすぎても荒れ、手を入れなくなっても、また別の形で荒れていくのかもしれません。はげ山の時代の荒れ方は、明るすぎる荒れ方でした。今、私が林の中で感じるのは、暗すぎる荒れ方です。光と風の通り道が閉ざされた林では、時間までもが淀んでいるように感じられます。
暗い林の中にも、もちろん樹木は生きています。けれども、その足もとには、下草がほとんど見られません。次の世代へと続いていく森の時間が、途切れかけているようにも感じられます。
樹木を大切にすることは、樹木に触れないことと、同じではないのだと思います。光と風が通るように手を入れること。その手入れの中に、敬意が形になって現れるのではないか。荒れた林の湿った匂いの中で、私はそんなことを考えます。
二百年先を見て育てる森
伊勢神宮では、20年に一度、社殿を新しく建て替える式年遷宮が続けられてきました。神宮の森、宮域林は、最初の遷宮のときに用材を伐り出す山と定められた森です。けれども、鎌倉時代の後期から檜の良い材が採れなくなり、用材はほかの山に求められるようになりました。
神宮は大正12年(1923年)、「神宮森林経営計画」を立てました。宮域林の檜を計画的に育て、御造営の用材をふたたび自分たちの森でまかなうことを目指した計画で、間伐をくり返しながら、二百年で目標とする檜を育てようとしています。平成25年(2013年)の第62回の遷宮では、間伐した材ではありますが、約700年ぶりに、宮域林から御造営用材の一部が供給されました。

七百年ものあいだ、御造営の用材を送り出せなかった森。そこに、二百年先を見すえて木を植え、育てはじめた人たちがいました。計画を立てた人たちは、その檜が伐られる日を、自分の目で見ることはありません。
使うことも、敬うことも
生活に使うための樹木と、信仰の対象の樹木は異なる。そう書きましたが、私はどちらか一方だけが正しいとは思っていません。使うことも、敬うことも、樹木との付き合い方のひとつです。
第3回で考えたように、境内の樹木は、伐られずに残されることで御神木になっていきました。その一方で、里山の樹木は、薪や炭、肥料として使われ続けてきました。残す樹木と、使う樹木。人は、樹木と二つの付き合い方を重ねてきたのだと思います。
御造営の檜は、伐られて使われるために育てられます。それでも、その檜が粗末に扱われていると感じる人はいないと思います。二百年をかけて育て、伐り、用いて、また植える。その循環そのものが、ひとつの祈りのようにも見えます。
『老子』に、「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず」という言葉があります。どこまで使ってよいのか、どこで止まるのか。はげ山の時代の人々も、荒れた山を前にして、この問いに向き合ってきたのではないでしょうか。
そう考えると、樹木への敬意は、生まれつき備わった美徳というよりも、失ってから取り戻してきた作法なのかもしれません。「昔の人は自然を大切にしていた」と美しく語るより、使いすぎ、荒らし、そのたびに守り方を学び直してきた人々の営みを、私は信じたいと思います。
樹木の時間で見れば
神宮の森の計画が立てられてから、百年あまりが過ぎました。二百年の計画は、ようやく半ばを過ぎたところです。人の一生では長い時間でも、樹木の時間で見れば、まだ途中にすぎません。

都市の樹木もまた、長い時間の中にあります。樹木が年を重ねていくことは、老朽化ではなく、その場所で生きてきた時間の積み重なりです。その長い時間とお付き合いしていくことが、都市の景観をつくることなのだと、私は考えています。
都市の中で、樹木の下を歩いて心地よいと感じるとき、そこにもやはり、光と風の通り道があります。枝を整え、光を通すことは、樹木のためであると同時に、その下で過ごす人の感覚のためでもあります。その心地よさは数字にしにくいものですが、都市の緑がもたらす大切な価値のひとつだと、私は感じています。
明るい林の中に差し込む光も、誰かが手を入れてきた長い時間の上にあるのかもしれません。共に生きてきた、と言い切ることは、まだできないのかもしれません。それでも、共に生きようとしてきた人たちの手の跡は、今も森の中に残っているのだと思います。
次回は、伐る側に立つ者として、伐ることと敬うことがどう両立してきたのかを考えます。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
出典・参考
・林野庁『令和4年度 森林・林業白書』特集2 第1節 https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/r4hakusyo_h/all/tokusyu2_1.html(江戸時代の荒廃森林とはげ山、留山、明治以降の荒廃と回復。2026年10月11日確認)
・林野庁 近畿中国森林管理局「はげ山だった近江湖南アルプス」 https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/kankyou_akueikyou.html(2026年10月11日確認)
・太田猛彦『森林飽和 ― 国土の変貌を考える』NHKブックス、2012年
・コンラッド・タットマン著、熊崎実訳『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館、1998年(原著 The Green Archipelago: Forestry in Preindustrial Japan, 1989)
・伊勢神宮「永遠の森」 https://www.isejingu.or.jp/sengu/forest.html(大正12年の神宮森林経営計画、鎌倉時代後期から良材が採れなくなったこと、第62回遷宮で約700年ぶりに宮域林から用材の一部を供給。2026年10月11日確認)
・伊勢神宮「式年遷宮」 https://www.isejingu.or.jp/sengu/(2026年10月11日確認)
・『老子』第四十四章「知足不辱、知止不殆」(維基文庫『老子(匯校版)』 https://zh.wikisource.org/wiki/老子_(匯校版)。2026年10月11日確認)
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」
第1回 御神木の前に立つと
第2回 樹木は、神そのものではなかった
第3回 残ったから、神になったのか
前回 第4回 「山川草木悉皆成仏」は誰の言葉か
第5回 共に生きてきた、は本当か(この記事)
次回 第6回 伐る者の作法(公開後にリンクを追記)
連載「樹木の時間」のすべての回は、連載の一覧からご覧いただけます。






















