鎮守の森は、信仰の場なのか、生きものの場なのか。明治の終わり、神社合祀によって各地の神社と森が失われていくなか、粘菌や植物を調べていた南方熊楠は、森を守ろうと声を上げました。都心の境内で感じる涼しさや静けさ、樹上で出会う生きものから、この問いを考えます。

境内に入ると、空気が変わる
都心の境内に足を踏み入れると、空気が変わったと感じることがあります。仕事で入った明治神宮、参拝で訪ねた府中の大國魂神社、クスノキの剪定をさせていただいた上野の寛永寺・輪王寺(上野寛永寺・輪王寺 樹木医によるクスノキ剪定)。どこでも、似たような変化がありました。
境内に入ると、ひんやりと涼しくなります。車や街の音が、遠ざかっていきます。木陰で、あたりが少し暗くなります。そして、土や落ち葉、緑の匂いがしてきます。
鳥居や山門をくぐる前と後で、変わったのは温度と音と光と匂いです。けれども、それらが重なり合うと、時間の流れ方そのものが変わるようにも思えます。
この涼しさや静けさは、樹木が集まって森になっているからこそ、生まれるものなのでしょう。信仰の場としての境内に入ったはずが、私の体が先に感じ取っているのは、森という生きものの集まりなのかもしれません。
森を守ろうとした人
明治39年(1906年)、政府は一つの町村に一つの神社を標準として、神社を整理し統合する方針を打ち出しました。神社合祀と呼ばれる政策です。和歌山県の上富田町の資料によれば、和歌山県は合祀がとりわけ激しく進んだ県で、県内の神社は13%にまで減ったといいます。

この合祀に強く反対したのが、和歌山県で粘菌や植物を調べていた南方熊楠でした。熊楠は地元の新聞で論陣を張り、合祀によって神社の森が払い下げられて伐られていること、そして自身が見つけた新種の植物や、貴重な動植物が失われようとしていることを訴えました。信仰のためだけでなく、自然を守る立場からも、神社の森を残すべきだと考えたのです。
熊楠は『神社合祀に関する意見』の中で、日本の神社の森には、その土地にもとからあった森が千年、数百年と残っているものが多いと書いています。そして、「偉大の老樹や土地に特有の珍生物は必ず多く神林神池に存するなり」と述べました。合祀の害として熊楠が挙げたのは、敬神の思いを薄くすることに始まり、史跡や古い言い伝えを失うこと、学術上貴重な天然記念物を失うことまで、八つにのぼります。
熊楠の主張は、民俗学者の柳田國男らの手で各界に届けられ、国会でも取り上げられました。やがて合祀の強制には歯止めがかけられていきます。熊楠が残した『神社合祀に関する意見』(明治45年・1912年)は、今も読み継がれています。
一本の樹木に暮らすもの
樹木に登っていると、熊楠が守ろうとしたものの一端に、ふれることがあります。
樹上で鳥の巣を見つけたり、鳥の声を間近に聞いたりすることがあります。樹洞や幹には、虫や小さな動物がいます。幹や枝には、苔やキノコ、ほかの植物が根を下ろしています。

ここからは、私の解釈です。
地上から見上げているとき、樹木は一本の生きものに見えます。けれども、樹上に入ると、一本の樹木が、たくさんの生きものの住まいであることが分かります。古い樹木ほど、樹洞や枝の傷み、苔の厚みが増えて、住まうものも増えていくのではないかと思います。

熊楠にとって神社の森は、生きものが残る場所でした。人が信仰のために伐らずに残してきた森が、結果として、生きものが暮らし続ける場所にもなっていた。信仰と生きものの営みが、同じ一つの場所に重なっていたのです。
人がつくった森が、生きものの森になる
私が仕事で入った明治神宮の森は、自然の森のように見えますが、大正時代に、全国から献木された木を多くの人の手で植えてつくられた森です。観光庁の解説文によれば、広さは約70ヘクタール。樹種は、百年先、二百年先の森の姿を見すえて選ばれました。神聖な場所として、倒れた木もそのまま土に還るように扱われ、今では珍しい鳥や虫も暮らしているといいます。
熊楠は同じ意見書の中で、林学者の本多静六の言葉を引いています。その土地の天然の植物の帯を学問として調べられる場所は、神社しか残っていない、というものです。その本多静六が、のちに明治神宮の森づくりを率いることになります。神社の森に土地本来の森の姿を見ていた人が、今度は神社の森を一からつくる側に回ったことになります。
人がつくった森が、百年の時間をかけて、生きものの森になっていく。そのあいだ森を守ってきたのは、ここが祈りの場であるという、人の思いでした。信仰が人の手を遠ざけ、そのことが、生きものの場を育ててきたとも言えます。
信仰の場と、生きものの場
境内には、もとはその土地に無かった樹種の御神木もあります。たとえばイチョウは中国原産とされ、日本に伝わった時期には諸説があります。それでも、各地の神社やお寺で、大きなイチョウが大切にされてきました。
そうした御神木を前にしたとき、私は、信仰の対象としての価値と、生きものの場としての価値を、分けて考えるようにしています。第5回で、生活に使うための樹木と、信仰の対象の樹木は異なる、と書きました。それと同じように、人が手を合わせてきた樹木であることと、生きものが暮らす場であることは、別々の物差しで見たいと思っています。
熊楠は、信仰の場と生きものの場が重なり合っていることを訴えました。私はその二つを、いったん分けて見ています。けれども、分けて見るからこそ、それが同じ場所に重なっていることの不思議さが、かえってよく見えてくるように思います。どちらか一方だけを正解とする必要は、ないのかもしれません。
都心に要るのは、無為の空間
第2回で、都心に本当に必要なのは、何もしないでいられる「無為の空間」ではないか、と書きました(第2回 樹木は、神そのものではなかった)。その思いは、どこか一つの場所で生まれたものではありません。仕事でいくつもの境内に入るうちに、少しずつ積み重なってきたものです。

境内は、何かをするための場所ではありません。運動するためでも、遊ぶためでも、何かを生み出すためでもない。ただ、そこにいることが許される場所です。ひんやりとした空気の中で、街の音が遠ざかり、土や落ち葉の匂いがする。その中に身を置くだけで、時間の流れ方が変わるように思います。
熊楠は、生きもののためだけに森を守ろうとしたのではありませんでした。意見書の中で、神社や神社の森、池や泉は、「人民の心を清澄にし」と書いています。ヨーロッパの公園や博物館を例に挙げ、言葉や文字によらずに人の心を慰め、清めるものの力にもふれています。百年以上前の熊楠も、神社の森が人の心にもたらすものを、確かに見ていたのだと思います。
熊楠が守ろうとした森は、生きものにとっての場所でした。そして同じ森は、人にとっても、何もしないでいられる場所であり続けてきました。都市の緑の価値は、数字で測れるものだけではないはずです。何もしないでいられる場所が、都市の中にどれだけ残っているか。それもまた、都市の豊かさの一つなのだと、私は考えています。
次回は、樹木は傷ついたとき何をしているのか、という問いから、樹木の体に刻まれる時間を考えます。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
出典・参考
・上富田町「神社合祀に反対した南方熊楠」(上富田町文化財教室シリーズ) https://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y11002.html(明治39年の方針、和歌山県の神社が13%に減ったこと(森岡清美『近代の集落神社と国家統制』による)、熊楠の反対の理由、柳田國男、国会での質問。2026年10月11日確認)
・南方熊楠『神社合祀に関する意見』(1912年)。青空文庫(底本『南方熊楠コレクション 第五巻 森の思想』河出文庫、1992年) https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/card525.html(神社の森の老樹と生きもの、合祀の八つの害、本多静六の言葉、「人民の心を清澄にし」。2026年10月11日確認)
・観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「明治神宮の杜 解説文(歴史、人工の杜、ランドスケープデザイン、植物・動物相)」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-00510.html(明治神宮の森の成り立ち、本多静六が率いたこと。2026年10月11日確認)
・コトバンク「イチョウ」(平凡社『改訂新版 世界大百科事典』ほか) https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6(中国原産、渡来の諸説。2026年10月11日確認)
・当社記事「上野寛永寺・輪王寺 樹木医によるクスノキ剪定」 https://toshilandscape.co.jp/archives/10754
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」
第1回 御神木の前に立つと
第2回 樹木は、神そのものではなかった
第3回 残ったから、神になったのか
第4回 「山川草木悉皆成仏」は誰の言葉か
第5回 共に生きてきた、は本当か(公開後にリンクを追記)
前回 第6回 伐る者の作法(公開後にリンクを追記)
第7回 熊楠が守ろうとした森(この記事)
次回 第8回 樹木は傷を治さない
連載「樹木の時間」のすべての回は、連載の一覧からご覧いただけます。





















