江戸川区にある寿昌院(じゅしょういん)。 その門前掲示板に、一枚の絵図が飾られています。
描かれているのは、江戸後期の寿昌院の境内風景。 そして右下には『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の文字があります。
この地誌は、江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所が文化7年(1810)に編纂を始め、文政13年(1830)に浄書本を将軍に献上したもので、その浄書本は国立公文書館(内閣文庫)に所蔵されています(神奈川県立図書館「新編武蔵風土記稿」解題)。挿絵がどこまで正確に当時の景観を写しているかは確かめようがありませんが、江戸後期の境内の姿を伝える記録として、大切な手がかりだと考えています。

寿昌院の門。門柱に「松本弁天 寿昌院」とある(2023年、当社撮影)
今回は、この一枚の絵図を入り口に、寿昌院の「臥竜(がりゅう)の松」と、この土地が歩んできた歴史について紐解いてみたいと思います。
(2026年10月に、『新編武蔵風土記稿』の本文、『葛西志』、江戸川区の資料で確かめたことを書き加えました。あわせて、地名についての推測を調べ直し、改めています。)
先に要点──江戸の絵図と本文、いまの臥竜の松
- 臥竜の松は、寿昌院(江戸川区松本1丁目)の境内にあるクロマツです。江戸川区の登録天然記念物(昭和61年〈1986〉2月12日告示)で、区は推定樹齢500年としています。
- 『新編武蔵風土記稿』の本文は、弁天社に向かって左に「老松三株」が並び、中の松には地面から三尺(約0.9m)ほどの所から西へ伸びる大枝があり、左右へ九間(約16m)余りも広がっていたと書いています。区は、この記述の松がいまの臥竜の松にあたると考えられる、としています。
- 江戸後期の三本は、高さ十五間(約27m)ほどと書かれた立ち姿の松でした。区と寺の説明では、大正期の大風で幹が折れて地を這う形になり、その姿から「臥竜の松」と呼ばれるようになりました。
- 題の「200年」は、絵図が載る風土記稿が献上されてからの年数で、樹齢ではありません。
1. 絵図と現在をつなぐ「一本の松」
絵図の中には、背の高い「三本の松」が並んで描かれています。後で見る本文が「社に向ひ左方」と書く三本です。

門前掲示板の絵図。『新編武蔵風土記稿』の「辨天社地圖」で、左のページに三本の松が描かれている
風土記稿の本文に書かれた「老松三株」
三本の松は、絵だけに描かれたものではありません。風土記稿の本文にも、この松のことが書かれています。巻之二十九(葛飾郡之十 東葛西領下之割)の松本村の「辨天社」の項です。風土記稿では、寿昌院は「壽昌庵」と書かれ、弁天社の境内にある庵とされています。
松について書かれた部分を、大日本地誌大系版から引きます。
社に向ひ左方に老松三株並ひ立り、共に高さ十五間許、中の松樹地上三尺許より西へ指る大枝ありて、それより左右へ廣がれること凡九間餘に及へり、いとめつらかなる木なれは、其圖を右に出せる境内圖に載たり
今の言葉にすると、「社に向かって左に、古い松が三本並んで立っている。どれも高さ十五間(約27m)ほど。真ん中の松には、地面から三尺(約0.9m)ほどの所から西へ伸びる大枝があり、そこから左右へ九間(約16m)余りも広がっている。たいへん珍しい木なので、その姿を境内の図に載せた」という内容です。門前の絵図は、この本文に添えられた図ということになります。
風土記稿の献上の9年前、幕臣の三島政行が文政4年(1821)にまとめた地誌『葛西志』にも、同じ松が出てきます。寿昌院のホームページに引かれている文では、「直立の老松三本」のうち中央の松が地面近くから枝を出して傘の形に広がっていると書き、「尤も奇木というべし」と結んでいます。
二つの地誌と、いまの臥竜の松
二つの地誌の記述と、江戸川区が示すいまの松の大きさを並べると、次のとおりです。
| 項目 | 『葛西志』 文政4年(1821) |
『新編武蔵風土記稿』 文政13年(1830)献上 |
いまの臥竜の松 江戸川区の資料 |
|---|---|---|---|
| 松の本数 | 直立の老松三本 | 老松三株 | 一本 |
| 高さ | ― | 十五間ほど(約27m) | 5m |
| 大枝の出る高さ | 地面から一尺(約30cm) | 地上三尺ほど(約0.9m) | ― |
| 枝の広がり | 八、九間四方(約15〜16m四方) | 左右へ九間余り(約16m余り) | 東西16.5m・南北18.4m |
| 書かれた言葉 | 尤も奇木というべし | いとめつらかなる木 | 区の登録天然記念物・景観重要樹木 |
出典: 『葛西志』は寿昌院ホームページの引用、『新編武蔵風土記稿』は大日本地誌大系版 巻之二十九 p.107〜108(国立国会図書館デジタルコレクション)、いまの松は江戸川区「えどがわ百景 34」。1間=約1.82m、1尺=約30cmで換算しました。「―」は、引用や資料に記載が無いものです。
現在、寿昌院に残る臥竜の松は一本のみです。 しかし、現在の写真と絵図を見比べると、絵の中央に描かれた一本と、現存する松の枯損した株元や、低くうねる下枝の姿が重なって見えます。

臥竜の松の株元と支柱
本文の数字にも、目を引く所があります。風土記稿の「左右へ九間余り」は約16m余りで、区が示すいまの東西の枝張り16.5mと、数字の上ではほぼ同じです。測った向きや測り方が同じとは限らないので、これを同じ木だという証拠にはできません。それでも、低い位置から横へ大きく張り出す枝は、江戸後期の記録にある「中の松」の特徴でもありました。
両脇の二本は、長い時の流れの中で何らかの理由により失われてしまったのかもしれません。 けれど中央の一本は、姿を変えながらも今日まで生き継がれてきた。絵図の松がいまの松と同じ木だとすれば、この松はおよそ200年前から、境内の風景の中心にあったことになります。江戸川区も、風土記稿に書かれた老松を「この松と考えられています」としています(えどがわ百景)。
2. 「立つ松」から「臥竜」へ
風土記稿の三本は、どれも高さ十五間ほどと書かれた、立ち姿の松でした。いまの臥竜の松は高さ5m(江戸川区)で、太い枝が地面すれすれを這うように伸びています。

寿昌院の臥竜の松。太い枝を低く横へ広げ、支柱が支えている(2020年、当社撮影)
江戸川区と寿昌院の説明では、大正期の大風で幹が折れ、這い松の形になりました。その姿から「臥竜の松」と呼ばれるようになったといいます。「臥竜」は、横になってうずくまる竜のことです(『デジタル大辞泉』)。
区の解説には、幹の中はうつろになっていても、葉の色は青く、樹勢も良いと書かれています。幹が折れたあとも枝が生き続け、いまの形をつくってきました。地を這う太い枝は、自分の重さを支柱で受けています。当社は2020年に池の中の支柱を、2023年には大規模な支柱の改修を行い、手入れと土壌改良も続けてきました(下の年表)。
「推定樹齢500年」と「200年」
当社のほかの記事でも、江戸川区の説明に合わせて「推定樹齢500年」(または500年以上)と書いてきました。寿昌院は「推定樹齢は500年以上と言われています」としています。一方、この記事の題の「200年」は、風土記稿が献上された文政13年(1830)から数えた年数で、樹齢ではありません。風土記稿の時点で、この松はすでに「老松」と書かれていました。
推定樹齢500年が、いつ、だれによって、どのように推定されたのかは、区と寺の資料には書かれていません。また、いまの松を風土記稿の「中の松」と同じ木とするのも、区が「といわれ」「考えられています」と書くとおり、推定です。
臥竜の松と寿昌院の歩み
| 年 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 応永5年(1398) | 『葛西御厨田数注文』に、郷の名として「松本」が見える | 江戸川区郷土資料室 解説シート No.1-8 |
| 慶安元年(1648) | 伊奈半十郎による松本村の検地、村には小名「江之島耕地」があり、のちの寺の山号のもとになる | 新編武蔵風土記稿、寿昌院ホームページ |
| 貞享元年(1684) | 池田氏の室、寿昌禅尼が寿昌庵を建立し、天海道龍が開山となる | 江戸川区「紙本著色黄檗宗祖師像」 |
| 文政4年(1821) | 三島政行『葛西志』成立、「直立の老松三本」「尤も奇木というべし」と書く | コトバンク(日本歴史地名大系)、寿昌院ホームページ |
| 文政13年(1830) | 『新編武蔵風土記稿』献上、「老松三株」「いとめつらかなる木」と書き、「辨天社地圖」に描く | 神奈川県立図書館の解題、大日本地誌大系版 |
| 大正期 | 大風で幹が折れて這い松の形になり、その姿から「臥竜の松」と呼ばれる | 江戸川区、寿昌院ホームページ |
| 昭和61年(1986) | 2月12日、江戸川区の登録天然記念物に告示 | 江戸川区「松本弁天臥竜の松」 |
| (年は資料に記載なし) | 景観法第28条に基づく、江戸川区の景観重要樹木に指定 | 江戸川区景観計画 第5章 |
| 2020年〜 | 当社が支柱の交換・改修、土壌改良、年末の手入れなどを続ける | 当社の記録(下の年表) |
3. 地名に残る「水」の記憶
ここで、寿昌院を取り巻く土地にも目を向けてみます。
寿昌院のある「松本」は、古い地名です。室町時代の応永5年(1398)の記録『葛西御厨田数注文』に、すでに郷の名として出てきます(江戸川区郷土資料室)。江戸時代の松本村は、風土記稿によると江戸から二里(約7.9km)余り、幕府の直轄地(御料所)で、村の中を元佐倉道が通っていました。
風土記稿は、村の中の小さな地名(小名)として「江之島耕地」「汐入耕地」などを挙げています。寿昌院の山号「江島山」は、この江ノ嶋の地名から来ていると寺は説明しています。「汐入」は、字のとおりに読むと潮が入り込む土地を思わせる名前です(由来を書いた資料は見つけられませんでした)。
江戸川区郷土資料室の解説によると、このあたりの村々は土地が低く川に囲まれ、たびたび洪水に見舞われました。竹やヨシを使う手仕事が盛んで、冬から春には葛西沖で海苔や貝を採っていました。松本村そのものは、江戸前期の『田園簿』で田が419石余、畑が70石余と、田の多い村でした(日本歴史地名大系)。いまも区の陸域の約7割は、満潮時の海面より低い「ゼロメートル地帯」です(江戸川区)。
「江」と「松」の付く地名の成り立ち
周辺には「江」や「松」の字を含む地名が数多く残っています。調べてみると、その成り立ちはさまざまでした。
| 地名 | 記録に見える時期 | 成り立ち | 出典 |
|---|---|---|---|
| 松本 | 応永5年(1398) | 中世の郷の名、由来を書いた資料は見つからず | 江戸川区郷土資料室 解説シート No.1-8 |
| 一之江 | 応永5年(1398)「東一江」「西一江」 | 中世の郷の名 | 同上 |
| 二之江 | 応永5年(1398)「二江」 | 中世の郷の名 | 同上 |
| 小松川 | 応永5年(1398)「東小松河」「西小松河」 | 中世の郷の名 | 同上 |
| 平井 | 応永5年(1398)「下平江」 | 中世の郷の名 | 同上 |
| 松江 | 明治22年(1889) | 町村制で村々をまとめたときの村名 | 同 解説シート No.1-6 |
| 瑞江 | 大正2年(1913) | 瑞穂村と一之江村が合併し、両村の一字ずつを取った名 | 江戸川区「東部地区の紹介」 |
| 松島 | 昭和40年(1965) | 住居表示で生まれた町名 | 江戸川区「江戸川区の住居表示実施状況」 |
「江」は入り江や水際を表す字で、一之江・二之江・平井(下平江)は、600年以上前の記録に見える古い地名です。水とともにあった土地の記憶は、こうした名前に残っていると考えています。
公開した当初、この記事では「松」の字を、海辺の防風・防潮の松林と結びつけて書きました。けれども調べ直すと、松江は明治22年、松島は昭和40年に付いた名前で、昔の松林から来た名前だと示す資料は見つけられませんでした。「松本」の「松」の由来も、私が調べた資料には書かれていません。海辺の松林を思い浮かべたくなる地名ですが、ここは想像にとどめておきます。
それでも、600年以上前の記録に名前の見える「松本」の地で、江戸後期の地誌が「いとめつらかなる木」と書いた松と考えられているクロマツが、いまも境内に生きている。そのことに、樹木医として深い縁を感じます。
4. 風景という「土地の記憶」を未来へ
「臥竜の松」の名が示す通り、地を這うように枝を低く伏せています。
一本の樹木を残すということ。 それは植物を維持するだけでなく、その土地の風景を次の世代に残すことでもあると考えています。臥竜の松は、景観法に基づく江戸川区の景観重要樹木に指定され、えどがわ百景の一つにも選ばれています。木そのものだけでなく、まちの景観の一部として守られている木です。
絵図に描かれた景色と、いまの境内の景色が重なって見えたことは、私にとって印象深い体験でした。支柱の交換や土壌改良、年末の手入れといったこれまでの作業を、これからも続けていきます。

寿昌院の境内での集合写真
よくある質問
Q1. 寿昌院の臥竜の松の樹齢は何年ですか。
江戸川区は、推定樹齢500年のクロマツとしています。この記事の題の「200年」は、『新編武蔵風土記稿』が献上された文政13年(1830)から数えた年数で、樹齢ではありません。
Q2. なぜ「臥竜の松」と呼ばれるのですか。
江戸川区と寿昌院の説明では、大正期の大風で幹が折れて地を這う形になり、その姿から「臥竜の松」と呼ばれるようになりました。「臥竜」は、横になってうずくまる竜のことです。
Q3. 江戸時代の記録には、どう書かれていますか。
『新編武蔵風土記稿』は、弁天社に向かって左に「老松三株」が並び、中の松には地上三尺ほどから西へ伸びる大枝があって左右へ九間余り広がる、珍しい木だと書いています。『葛西志』(1821年)も「奇木」と書いています。江戸川区は、この記述の松がいまの臥竜の松にあたると考えられる、としています。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
臥竜の松と境内の松の記録(年表)
寿昌院様の臥竜の松と境内の松について、当社がこれまでにブログで公開した記録を、年の順に並べました。作業の記録のほか、境内の絵図と見比べた本記事も含みます。各記事に作業日の記載が無いため、年月は記事の公開日です。
- 2020年4月(公開日) — 経年劣化した支柱を交換。池の中の支柱は、池の水をポンプで排水してから、丸太1本の頬杖支柱を丸太2本の仕様に変更。丸太は防腐剤処理をして表面を焼いた仕様 — 寿昌院 臥竜の松 池の中の支柱を丸太二本の仕様に交換 江戸川区登録天然記念物
- 2020年10月(公開日) — 年末の手入れ作業(古葉の揉み上げ)の打ち合わせと、背負式動力噴霧器による病虫害防除の薬剤散布。松葉の色も良く、樹勢を含めて問題なし — 寿昌院 臥竜の松の病虫害防除と、マツ枯れの仕組み──マツ・マツノマダラカミキリ・マツノザイセンチュウの関係を樹木医が解説
- 2022年3月(公開日) — 割竹挿入法・水圧穿孔法・施肥による土壌改良(毎年、施工箇所をローテーションしながら継続)。あわせて敷地内の保存樹木のマツの剪定と、支柱の補修 — 寿昌院様 臥竜の松 割竹挿入法・水圧穿孔法の土壌改良 東京都江戸川区
- 2022年5月(公開日) — 新芽の緑摘みの手入れと、マツ枯れ対策の薬剤散布 — 寿昌院様 臥竜の松 緑摘みとマツ枯れ対策の薬剤散布 東京都江戸川区
- 2023年1月(公開日) — 臥竜の松と並んで江戸川区の保護樹木に指定された松の、年1回の手入れ。臥竜の松は、支柱の交換のプロジェクトが進行中 — 寿昌院様 江戸川区・保護樹木管理 江戸川区
- 2023年3月(公開日) — 大規模な支柱の改修。枝どうしを横につなぐ丸太や竹の横木をなくして頬杖支柱で補強し、劣化した丸太・竹支柱・石柱を部分的に撤去して、防腐剤(タナリス)処理の焼き丸太に交換。丸太と竹は棕櫚縄で結束 — 寿昌院様 臥竜の松 支柱改修プロジェクト
- 2024年12月(公開日) — 年末の手入れで毎年行う古葉の揉み上げ。若い職人も、樹木医や先輩職人の指導を受けながら作業 — 生命力を感じる名木「臥竜の松」 その美しさと歴史 江戸川区
- 2025年12月(公開日) — 門前掲示板の江戸後期の境内の絵図と、現在の臥竜の松を見比べた記録(本記事)
出典・参考情報
- 『新編武蔵風土記稿』巻之二十九 葛飾郡之十 松本村「辨天社」(『大日本地誌大系』第6巻、雄山閣、p.107〜108)国立国会図書館デジタルコレクション
- 神奈川県立図書館「新編武蔵風土記稿」解題
- コトバンク「葛西志」(日本歴史地名大系)
- 寿昌院ホームページ(縁起・松本弁天・臥竜の松、『葛西志』の引用)
- 江戸川区「松本弁天臥竜の松」(登録天然記念物)
- 江戸川区「えどがわ百景 34 樹齢500年 松本弁天臥竜の松」
- 江戸川区景観計画 第5章(景観重要樹木)
- 江戸川区「紙本著色黄檗宗祖師像」(指定有形文化財。寿昌院開山 天海道龍の頂相画)
- 江戸川区郷土資料室 解説シート No.1-8「葛西御厨」・No.1-5「近世の人びと」・No.1-6「近代の人びと」
- 江戸川区「東部地区の紹介」・「江戸川区の住居表示実施状況」・「江戸川区ってどんなところ?」(ゼロメートル地帯)
- コトバンク「松本村」(日本歴史地名大系。東京都江戸川区の項)
- コトバンク「臥竜」(デジタル大辞泉)
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