伐ることは、樹木への敬意を手放すことなのか。腐朽と空洞で倒れる危険が高まり、自分たちの手で伐った一本の切り株の前で、私は年輪の色と木の香りの中にいました。連載の最終回は、その一本を手がかりに、樹木を見送るということと、次の一本へ続いていく樹木の時間を考えます。

忘れられない一本
自分たちの手で伐った樹木の中に、忘れられない一本があります。腐朽と空洞のために、倒れる危険が高くなっていた樹木です。
伐り終えたあと、切り株と、そこから伸びる芽は残しました。そして、塩と酒を供えて、手を合わせました。第6回で書いた、伐る者の作法です。
切り株には、年輪の色が見えていました。木の香りがしていました。作業が終わったあとの現場は静かで、見上げると、それまで枝葉に覆われていた空が、広く開けていました。私は、切り株に手を当てていました。
切り株の前で思ったこと
そのとき、私は三つのことを考えていました。
一つは、この木がここに立っていた時間のことです。年輪の一つひとつが、この木がこの場所で過ごした一年でした。
二つめは、伐る判断をした者としての責任です。この木を伐ると決めたのは、自分たちでした。
三つめは、次の一本をどうするか、ということでした。切り株を前にして、もう、その先のことを考えていたのです。
ここからは、私の解釈です。この三つは、過去と、いまと、これから、なのだと思います。立っていた時間を思い、伐った責任を引き受け、次の一本に目を向ける。見送るということは、その三つの時間を、一度に抱えることなのかもしれません。
樹木の時間は、一本では終わらない
この連載で、伐ったあとに人がしてきたことを、いくつか見てきました。
第6回で紹介した万葉集の「鳥総立て」。木を伐ったあと、山の神を祭るために、その株などに梢を立てたとされます。山形県の置賜地方には、伐った草木を供養する草木塔が残り、いちばん古いものは安永9年(1780年)に建てられました。第5回では、伊勢神宮が大正12年(1923年)に、二百年先を見すえて宮域林の檜を育てる計画を立てたことを書きました。

梢を立てること。石の塔を建てること。二百年先の森のために木を植えること。どれも、一本の樹木の時間を、その一本で終わらせないための営みだったように思います。
私が切り株と、そこから伸びる芽を残したのも、同じことだったのかもしれません。伐った樹木の時間は、切り株の中に、芽の中に、そしてその場所に立っていた記憶の中に、少しずつ受け継がれていきます。
見送ったあとも、続いていくもの
第9回で紹介した英国の古木の手引きには、心に残る一文があります。死にかけている古木も、何十年ものあいだ立ち続けることがあり、風景の中に残っているかぎり、生きものや歴史、文化とのつながりを保ち続け、生きものにとってとても大切な住処にもなる、というのです。
第8回では、樹木は傷を治すのではなく、傷を閉じ込めて、その外側に新しい層を重ねて生きていく、というシャイゴの考えを紹介しました(第8回 樹木は傷を治さない)。樹木は、生と死を一本の中に抱えたまま、長い時間を生きています。そして、その命が終わったあとも、朽ちていく材は、ほかの生きものの時間を支えていきます。
ここからは、私の解釈です。見送るということは、樹木の時間を断ち切ることではなく、その時間を、別の形に手渡すことなのかもしれません。切り株に残る芽へ、そこに住まう生きものへ、そして、その樹木を覚えている人の記憶へ。
植えた時がスタート
修業時代に、師匠から教わった言葉があります。「樹木は植えた時がスタート」。植えて終わりではない、という意味でした。樹木の時間は、植えたその日から始まり、人の手入れとともに、長い年月をかけて育っていきます。

ここからは、私の解釈です。植えた時がスタートなら、伐った時もまた、終わりではないのだと思います。伐った場所に、次の一本が植えられる。切り株から、新しい芽が伸びる。伐った樹木を思い出す人がいる。樹木の時間は、そうやって、人の時間よりもずっと長く、つながっていくのでしょう。
伐ることは、敬意を手放すことではない。私はいま、そう考えています。伐る前に手を合わせ、伐ったあとに手を当て、次の一本のことを考える。その一連の時間の中に、見送る者の敬意があるのだと思います。
次の一本の前に
第1回で、御神木の前に立つとき、私は自分の一生では測りきれない時間がそこに立っていることを見ているのだと書きました(第1回 御神木の前に立つと)。そして、自分の時間の尺度を、いちど樹木の時間のほうに合わせてみたい、と書きました。
この連載では、樹木が神そのものではなかったこと、残ったから神になったのかもしれないこと、伐る者の作法、傷を治さずに抱えて生きる樹木の体、老いることと衰えることの違い、そして敬意が重さになるときのことを考えてきました。

樹木の時間に、自分の尺度を合わせることができたのか。正直に言えば、まだ分かりません。ただ、一本の樹木の前に立つたびに、その樹木が過ごしてきた時間と、これから過ごす時間のことを、考える時間が、少しずつ長くなっているのかもしれません。
答えは出さないまま、私はまた、次の一本の前に立ちます。幹に手を当て、心の中で「よろしくお願いします」と声をかけて。
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」は、今回で終わります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
出典・参考
・奈良県「万葉百科」巻3-391 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=391 / コトバンク「鳥総」(小学館『デジタル大辞泉』) https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E7%B7%8F(第6回で確認)
・米沢市「草木塔」 https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/soshiki/18/2/5/5/1159.html(第6回で確認)
・Ancient Tree Forum / Woodland Trust, Ancient Tree Guide 4 PDF(死にかけている古木も長く立ち続け、生きものの住処となること。第9回で確認)
・伊勢神宮「永遠の森」 https://www.isejingu.or.jp/sengu/forest.html(第5回で確認)
・当社記事 連載「樹木の時間」第1回・第5回・第6回・第8回・第9回
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」
第1回 御神木の前に立つと
第2回 樹木は、神そのものではなかった
第3回 残ったから、神になったのか
第4回 「山川草木悉皆成仏」は誰の言葉か
第5回 共に生きてきた、は本当か
第6回 伐る者の作法
第7回 熊楠が守ろうとした森
第8回 樹木は傷を治さない
第9回 老いることは、衰えることか
第10回 樹木は感じているのか
前回 第11回 敬意が重さになるとき
第12回 見送るということ(この記事)
連載「樹木の時間」のすべての回は、連載の一覧からご覧いただけます。

































