縮んでいく老樹は、弱っているのか。江戸川区の寿昌院で毎年手入れをしている臥竜の松の前で、私は「老いているのに、衰えていない」と感じてきました。英国の古木の考え方や、ドイツで見た枯れ枝の残し方、『荘子』の「無用の用」から、老いることを考えます。
枯れた枝に宿るもの
第1回で、祖父の縁側に並んでいた盆栽のことを書きました(第1回 御神木の前に立つと)。毎日水をやり、芽や葉を摘んでいた祖父の手の動きは、いまも覚えています。
盆栽の世界には、枯れた枝や幹を、見どころとして残す見方があります。観光庁の多言語解説文は、盆栽の楽しみ方として、「神(じん)」と「舎利(しゃり)」と呼ばれる枯れた枝や幹に宿る厳粛さも見るポイントだ、と紹介しています。
枯れた部分を取り除くのではなく、残して、その白さや形に、長い年月を見る。盆栽を愛でる人たちは、樹木の古さを、衰えではなく美しさとして受け取る目を持っているのだと思います。では、樹木自身にとって、老いるとはどういうことなのでしょうか。
臥竜の松の前で
江戸川区の寿昌院の境内に、臥竜の松と呼ばれるクロマツがあります。江戸川区の登録天然記念物で、区の説明によれば推定樹齢は約500年。大正時代の大風で幹が折れ、地を這うような姿になったことから、臥竜の松と呼ばれるようになりました。幹の内部は空洞になっていますが、葉の色は青々として、樹勢も良好だといいます。

当社は、この松の手入れを毎年させていただいています。春の緑摘み、年末の古葉の揉み上げ(生命力を感じる名木「臥竜の松」)。池の中で太い枝を受ける支柱も、丸太二本の形に替えました(寿昌院 臥竜の松 池の中の支柱を丸太二本の仕様に交換)。
緑摘みのころ、松の前に立つと、松の葉やヤニの香りがします。池の水面に、枝が映っています。新芽は明るい緑で、春の光を受けています。指先で新芽にふれると、その柔らかさが伝わってきます。

毎年この松に向き合うと、去年と同じように見えて、少しずつ変わっていることに気づきます。自分よりずっと長く生きているものに、毎年手を入れる。その重さも感じます。そして、何よりも、老いているのに衰えていない、という感じがするのです。
下へ育つ、という生き方
英国で古木の保全に取り組む Ancient Tree Forum と Woodland Trust の手引きに、古木についての興味深い説明があります。
樹木は、ずっと高く伸び続けると思われがちです。けれども、古木はそうではありません。成熟の盛りを過ぎた樹木は、枝が少しずつ枯れ落ちて、樹冠が小さくなっていきます。手引きは、これを葉の量と根の広がりの釣り合いを取り直す自然の過程だとし、「下へ育つ」とも言われると書いています。小さな樹冠と太い幹は、強い風に耐え、根返りを避けることにもつながる、と。

同じ手引きは、年を経た樹木の幹が空洞になるのはまったく普通のことで、不健康のしるしではない、とも書いています。古木の段階に入っても、樹木は何十年、ときには何百年と、健やかに生き続けることがあるのです。
幹が空洞になり、枯れた枝が落ちて朽ちていくことで、材の中に閉じ込められていた養分がふたたび樹木に使えるようになり、長生きを助けているのかもしれない、とも手引きは述べています。
手引きは、自然な縮小と、病気や大きな傷による衰えとを見分けることの大切さにもふれています。自然に縮んでいく樹木では、一部の枝が枯れても、残りの樹冠は元気なままです。そこから新しい樹冠が育つこともあり、手引きはそれを、年齢の時計を巻き戻すようなものだと書いています。衰えている樹木では、樹冠全体が薄く、色あせて、少しずつ枯れ込んでいきます。
ここからは、私の解釈です。人は、大きくなり続けることを、生きている証のように考えがちです。けれども、古木は、自らを小さくすることで、長く生きる道を選んでいるように見えます。縮むことは、衰えではなく、その樹木が長い時間の中で身につけた、生き方の一つなのかもしれません。
枯れ枝を残すか、落とすか
樹木の手入れをしていると、枯れ枝を落とすか、残すかを決める場面があります。私の基準は、はっきりしています。人に危険がある場所の枯れ枝は落とす。人に危険が無く、生きものの住処になるところは残す。

ドイツの都市公園や、森、郊外を訪ねたとき、古木の枯れ枝や空洞を残して、生きものの場にしている様子を見ました。日本で見てきた古木の扱いとは違う、と感じたことの一つです。
英国の手引きは、古木の朽ちていく材を、ヨーロッパに残る最も大切な生きものの住処の一つだと書いています。そうした住処ができあがるまでには、数百年かかることもあるそうです。枯れ枝や空洞は、樹木にとっての終わりではなく、ほかの生きものにとっての始まりでもあるのです。
役に立たないから、残った
中国の古典『荘子』の人間世篇に、一本の大きな木の話があります。
腕のよい大工の匠石が、旅の途中で、社に祀られた巨大な櫟(くぬぎ)の木を見かけます。見物人が市場のように集まっているのに、匠石は振り返りもせずに通り過ぎます。弟子が理由を尋ねると、匠石は答えます。これは役に立たない木だ。舟にすれば沈み、棺にすれば早く腐り、器にすれば壊れる。使い道が無いからこそ、これほど長生きできたのだ、と。
その夜、櫟の木が匠石の夢に現れて語ります。実のなる木は、実が熟せばもぎ取られ、枝を折られて、天寿をまっとうできない。自分は長いあいだ、役に立たないことを求めてきた。それが今、自分にとっての大きな役立ちになっているのだ、と。人間世篇は、「人は皆、役に立つものの役立ちは知っているが、役に立たないものの役立ちは知らない」という言葉で結ばれています。
第3回で、御神木は、残ったから神になったのかもしれない、と書きました。荘子の櫟も、社の木として、伐られずに大きくなりました。人の役に立たないことが、樹木にとっては、長い時間を生きるための条件だったのかもしれません。
古さを美しいと感じる目
私はこれまで、都市の樹木の老朽化を、樹木の生育時間の積み重なりとして捉えたいと考えてきました。幹の空洞も、地面を持ち上げる根も、ただ劣化として片づけるのではなく、その樹木がその場所で過ごしてきた時間のあらわれとして見たいのです。
盆栽の枯れた枝に厳粛さを見る目。臥竜の松の前で、老いているのに衰えていないと感じる心。古木が自らを小さくして生き続けるという英国の手引きの説明。役に立たないから長生きした荘子の櫟。古さを美しいと感じる人の感性と、老樹の生き方は、どこかで重なっているように思えます。
老いることは、衰えることではないのかもしれません。少しずつ小さくなり、枯れた部分をほかの生きものに明け渡しながら、なお葉を広げて立ち続ける。それは、長い時間を生きてきた樹木にしかできない、一つの成熟の形なのだと思います。
次回は、樹木は何かを感じているのか、という問いを考えます。
株式会社トシ・ランドスケープ
樹木医 中村雅俊
出典・参考
・観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「盆栽の楽しみ方(見方と見どころ)」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554388.pdf(神と舎利。2026年10月12日確認)
・江戸川区「松本弁天臥竜の松」(江戸川区登録天然記念物) https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/bunkazai/toroku/shokubutsu115.html(推定樹齢約500年、大正期の大風、幹の内部の空洞と樹勢。2026年10月12日確認)
・Ancient Tree Forum / Woodland Trust, Ancient Tree Guide 4: What are ancient, veteran and other trees of special interest? PDF(樹冠の縮小(crown retrenchment、「下へ育つ」)、空洞は不健康のしるしではないこと、空洞化と枯れ枝が養分の再利用を助けうること、自然な縮小と衰退の見分け、朽ちる材は大切な生きものの住処であること。2026年10月12日確認)
・『荘子』人間世篇(維基文庫「莊子/人間世」 https://zh.wikisource.org/wiki/莊子/人間世。匠石と櫟社の樹、「人皆知有用之用,而莫知无用之用也」。2026年10月12日確認)
・当社記事「生命力を感じる名木「臥竜の松」 その美しさと歴史 江戸川区」 https://toshilandscape.co.jp/archives/9328
・当社記事「寿昌院 臥竜の松 池の中の支柱を丸太二本の仕様に交換」 https://toshilandscape.co.jp/archives/3449
連載「樹木の時間 ― 御神木の前で考えたこと」
第1回 御神木の前に立つと
第2回 樹木は、神そのものではなかった
第3回 残ったから、神になったのか
第4回 「山川草木悉皆成仏」は誰の言葉か
第5回 共に生きてきた、は本当か
第6回 伐る者の作法
第7回 熊楠が守ろうとした森
前回 第8回 樹木は傷を治さない
第9回 老いることは、衰えることか(この記事)
次回 第10回 樹木は感じているのか(公開後にリンクを追記)
連載「樹木の時間」のすべての回は、連載の一覧からご覧いただけます。
































